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【ドイツ軍の】修正される独ソ戦【予防戦争】


 「1941年6月22日。

ナチス・ドイツはソ連との独ソ不可侵条約締結を破棄してソ連領に攻め込んだ。

世に言う独ソ戦の始まりである。この先制攻撃は「バルバロッサ」作戦と名づけられた。

奇襲攻撃から始まったこの戦争はドイツによる一方的な侵略であると言われてきた。

しかし、時は流れ、ソ連が崩壊すると、独ソ戦の評価の見直しがロシアで活発に行われ始めた。

現在のドイツは第二次世界大戦の戦争責任はドイツにあるという前提にあるため、その議論にはおのずと限界がある。

独ソ戦の専門家であるヨアヒム・ホフマン博士は資料に基づいて独ソ戦の前にスターリンがヨーロッパ侵攻作戦を計画していたことを明らかにした。

しかし赤軍を批判することを許さない左翼政治家やジャーナリストから博士の訴追と本の没収の声が上がった。

判事がホフマン博士の友人だったため、何とか訴追こそ許されたものの、もしもコネがなかったら訴追は免れなかった。

これがドイツの独ソ戦に関する見解の限界なのだ。

また、ポーランド分割に関しては言論の自由が存在しない。

ドイツ軍将校が戦後45年も経ってからWWUについて「ドイツ単独責任論」について何かを言ったら軍から追放された事件があるくらいだ。

ドイツ戦争責任単独論はドイツ連邦の基盤であり、それを否定することは許されないのだ。

敗戦国の運命というところだな」

 

 参考資料:発見!不条理のかたまりの国 戦時宣伝の影響下での市民的諸権利の退化 著:ゲルマール・ルドルフ
(アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/rudolf_04.htm)
 もう一つのケースがある。有名がドイツの歴史家が、歴史的には正しいが、政治的には「正しくない」分析を行なっ たために、刑事訴追の対象となりそうになったが、かろうじて訴追を免れた事例である。ヨアヒム・ホフマン博士は、ドイツ政府の軍事史研究所の中心的な研究 者であった。彼の専門は、ロシア、とくに1941−1945年の独ソ戦であった。彼は、定年退職直前に、スターリンがこの戦争を計画・実行したという、浩 瀚な専門的研究書を発表した。ホフマン博士は、スターリ ンがすでに1939年にヨーロッパ大陸への侵攻とその征服を計画していたこと、望ましからざる戦争を戦うように、きわめて残酷な手段を使って自国兵士たち に強制したこと、自国民だけではなく、1943−1945年に(再)征服した人々すべてに対してテロルの体制をしいたことを明らかにした。し かし、左翼の政治家やジャーナリストを怒らせたのは、ドイツに対するソ連の虐殺宣伝の実態を明らかにし、それが虚偽もしくは誇張された戦争宣伝であると述 べたことであった。また、ホロコーストの特定の局面についてもこの意味合いで言及しており、その虚偽や戦争宣伝的性格を立証していたために、ホフマンの訴追と本の没収を求める声があがった。裁判を開くか開かないかを裁定する判事がホフマン博士の友人であったために、彼は訴追を免れた[24]。もしも、本書の語句を一つでも変更すれば、時効期限を更新してしまうので、訴追は免れえないともいわれたという[25]。

 参考資料:ホロコースト講義4.3.4 「法の支配の下にある諸国」での裁判[戦後の西ドイツでの裁判]著:ゲルマル・ルドルフ
(アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/lectures/434.htm)
もちろん、この問題には別の側面もあります。1990年、一人のドイツ軍将校が、軍から放逐されました。同僚の将 校との私的な会話の中で、ホロコーストと第二次世界大戦についてのドイツの単独責任に対する疑念を口にしたためでした[10]。1939年のポーランド分 割は、ドイツソ連の条約の結果であり、両国は第二次世界大戦の口火を切ったという意味で共同責任を負っているということになります。しかし、この問題は、 ドイツ軍将校に対する民事裁判の法廷では議論されませんでした。ドイツ連邦共和国行政法廷は、この将校はこうした発言によってドイツ連邦共和国への忠誠義 務に違反したとの理由で、この証拠を有罪としたのです。今日のドイツ国家の基本理念がホロコーストと第二次世界大戦のドイツの単独責任を疑問の余地のない事実として認めることにあるので、この理念に賛同しないことは、ドイツに対する忠誠義務違反となるというのです。この将校は、ドイツの自由・民主主義的基本秩序に忠実ではない咎で有罪となったのです。

 参考資料:ロシアにおける歴史的修正主義 著:ヴォルフガング・シュトラウス
(アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/strauss_01.htm)
「バルバロッサ」作戦についての見方は、ドイツとロシアでは異なっている。ドイツでは、現在の体制がこの戦争の原因についての許容しうる見解の範囲を限定しており、そのことが現体制の存在理由となっているのに対して、ロシアでは、The Great Civil War 1941-1945にも見られるように、正反対の事態となっている。すなわち、ロシアでは、歴史家たちが外国のドグマにへつらうことを拒んだとしても、自分の首が落ちるわけではないのである。ディヤコフはこの著作を、「ヨーロッパ文化の敵が始めた戦争の中で命を落としたすべてのロシア軍兵士とドイツ軍兵士」に捧げている。

 

 「一方、ソ連崩壊後のロシアでは戦争の原因がドイツだろうがソ連だろうが、現体制にまったく関係ないので先進国の間ではもっとも自由に議論することが許されている。

もちろんソ連時代のままに独ソ戦は「ドイツの一方的な侵略戦争であり、ソ連の大祖国戦争」だと言い張る勢力もある。

ロシアではこの2つの勢力が自由に議論を行う言論の自由が存在する。

見直し派の中でも注目すべき主張は独ソ戦はドイツ国防軍による予防戦争だったというものだ」

 

 参考資料:試訳:独ソ戦の歴史的修正 ドイツとロシアの歴史家論争 著:D. マイケルズ
(アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/michaels_01.htm)
ロシアでは、大別すると二つのグループがこの論争に関与している。第一のグループは、ソ連はドイツとヨーロッパに 対する攻撃計画をまったく持っておらず、戦争の準備を整えていなかったと主張しており、第二のグループは、スターリンと赤軍はドイツ奇襲計画を作成してい たが、ヒトラーに粉砕されてしまったと論じている。
(中略)
 第一のグループは、スターリン流に古いソ連の正史を弁明するという重荷を背負っており、
第二のグループは、ヒトラーのドイツによる侵攻を正当化しようとしているという重荷を背負っている。論 争自体はさておいて、双方の方法論が歴史学的に対立してしまっていることは明らかである。すなわち、第一のグループは、ソ連の政治文献に依拠して、自説を 展開しているのに対して、第二のグループの歴史分析は、軍事学、部隊の配置や武器システムなどの研究・比較にもとづいているのである。

 

 「独ソ戦の発端であるバルバロッサについての議論の争点は「赤軍は実際にドイツ侵攻作戦を立てていたのか?」という点にある。

これは長年の議論になっていた。

冷戦時代のソ連はあくまで一方的に侵略されたという説を主張していたが、ドイツがソ連に攻め込んだとき、ソ連軍は国境付近に大軍を配置していた。

だから「ただ大軍を置いていただけ」なのか、「実際に侵攻するつもりだった」のかで論争になっていた。

近年、ソ連時代の政府関係の文書記録に民間人が自由にアクセスできるようになったため、さらに歴史の修正が進んでいる。

この民間人の一人であるミハイル・メルチュホフは全ロシア文書資料・文書資料学学術研究所と協力している歴史家だ。

このメルチュホフによると、当初、対ドイツ奇襲作戦(「雷」作戦)の開始は1941年6月12日に予定されていたが、その後、その日付を7月15日に移したという。

バルバロッサ作戦は1941年6月22日だったから、当初の計画通りに実行していれば独ソ戦の様相は大きく変わったに違いない。

これは従来の歴史観、すなわちナチズムと共産主義のイデオロギーの違いが戦争の原因という説とは大きく異なっている。

つまり、「「我が闘争」で書かれているようにソ連は潜在的な脅威だから攻めた」というわけではなく、実際に脅威だったということだ。

独ソ戦がドイツ軍による予防戦争だったという主張はここから来ている。

元々ヒトラーはソ連と戦争するつもりはなかったが、ソ連がやる気だったから先制攻撃に打って出たということだ。

しかしメルチュホフは赤軍がドイツ侵攻作戦を計画していたと主張しているが、「予防戦争」という言葉を使うのは拒んでいる。

本当の予防戦争であるためには、攻撃側が、敵側の侵攻をはっきりと知っていることが必要であるというからだ。

メルチュホフによると、ドイツとソ連双方とも、相手側が兵力を配置していることは知っていたけれども、ドイツ側もロシア側も、相手方の攻撃予定をはっきりとはつかんでいなかったのだ」

 

 

 参考資料:試訳:独ソ戦の歴史的修正 ドイツとロシアの歴史家論争 著:D. マイケルズ
(アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/michaels_01.htm)
メルチュホフによると、当初、対ドイツ奇襲作戦(「雷」作戦)の開始は1941年6月12日に予定されていたが、その後、クレムリンは運命的に、その日付を7月15日に移したという。す なわち、「不幸なことに、われわれが今日知っていることは1941年には秘密であった。ソ連指導部は、こちらから奇襲を仕かけなかったことによって、運命 的な誤算を行なってしまった」というのである。メルチュホフは、スターリンが攻撃を延期したのは、ルドルフ・ヘスが飛行機でスコットランド到着したこと を、5月12日に、知ったときであったと推測している。スターリンは、もしもヘスの講和交渉が成功すれば、イギリスは戦争から離脱することになり、赤軍が 単独でドイツと戦わなくてはならなくなることを恐れたというのである。そして、スターリンは、ヘスの交渉が失敗したことが明らかになったとき、「雷」作戦 の開始を7月15日に設定した。それは、ヒトラーがバルバロッサ作戦を開始した22日後のこととなった。メルチュホフは、もしも赤軍が当初の計画通りに攻 撃を始めていれば、成功を収めたであろうと考えている。
ソ連情報局は、日本にいたスパイのゾルゲ、ベルリンの「コルシカネツ」、「スタルシナ」という情報源から、ドイツの攻撃の正確な開始時期を知っていたにも かかわらず、スターリンは、これを認めることを拒んだ。さらに、チャーチル首相とルーズベルト大統領もスターリンに警告したが、無駄であった。スターリン は、イギリスが自国の利益のために、ソ連の対ドイツ参戦を必死で望んでいると考えていたからである。ソ連は、当初計画されていたように、最初に攻撃しな かったことによって、開戦2週間半で、80万の兵力(ドイツは8万)、4000の航空機(ドイツは850機)、21500の野砲と11800の戦車(ドイ ツは400)を失った。1941年末までに、ソ連は300万の赤軍兵力を失った。
メルチュホフは、「予防戦争」という用語を使うことを拒んでいる。本 当の予防戦争であるためには、攻撃側が、敵側の侵攻をはっきりと知っていることが必要であるというのである。メルチュホフによると、ドイツとソ連双方と も、相手側が兵力を配置していることは知っていたけれども、ドイツ側もロシア側も、相手方の攻撃予定をはっきりとはつかんでいなかった。スターリンは、幾 分か論理的であるのだが、ヒトラーは、イギリスがまだ降伏していない段階で、第二戦線を開くはずがないと信じていたが、ヒトラーは赤軍が攻撃を開始するま で待たないことを選択していた。彼は自分独自の電撃作戦をスタートさせたのである。この状況は、二匹の猫がフェンスの両側にいて、どちらが最初に跳びか かってくるのか見極めようとしている場面に酷似している。ヒトラーは、攻撃開始の前日に、自分の心中を、ムッソリーニあての書簡の中で明らかにしている。

 

 「赤軍がドイツ侵攻作戦を計画しており、大軍を国境付近に配置していたことはわかった。

ではドイツ側はどこまでそれを知っていたのか?

当事者に聞いてみよう。

オットー・エルンスト・レーマー旧ドイツ国防軍少将(1912-1997)は、1944年7月20日の反ヒトラー陰謀・反乱を鎮圧するにあたって、中心的な役割を果たした人物だった。

大戦末期、わずか31歳で少将になったこの青年将校はドイツでもっとも名誉のある勲章のいくつか、すなわち、騎士戦功鉄十字章、ドイツ金十字章、柏葉つき鉄十字章、戦傷金章、近接戦闘銀章を授与されている。

素晴らしい経歴の持ち主の英雄だ。

この英雄は戦後でも「ヒトラー暗殺計画」を非難し、それを防いだことは正当だったと主張している

もしもヒトラーが暗殺されたらドイツの政治中枢は混乱で麻痺し、東部戦線への補給は滞るか、完全にストップする。

それはドイツ軍の壊滅を意味し、西部へ逃げ遅れた数百万人の難民が赤軍の餌食となって殺されるか収容所に送られただろうということだ。

たしかにヒトラーが暗殺されれば戦争は終わっただろう。ドイツの完全な破滅という形で」

 

▲エルンスト・レーマー少将(左:戦時中 右:戦後)

 「敗戦後、レーマー将軍は連合国からの真の政治的・軍事的独立を目標に政治家に転向し、実際に選挙でも票を集めていた。

連合国にとってレーマー将軍のように国民に支持された保守系政治家は邪魔以外の何者でもなかった。

連合国の戦後統治の課題はドイツを弱体化させ、二度とドイツを連合国の脅威となるような大国にしないことだったから、レーマーのような「米ソと対等に付き合える強いドイツ」を再建しそうな指導者はなんとしても排除しなければならない。

こうしてレーマー将軍はネオナチのレッテル貼られて社会的地位を失い、晩年には修正主義的文献の出版の咎で刑事訴追された。

そのために、彼はスペインに亡命し、その地で1997年に他界した。

ネオナチとはレーマー将軍のような連合国にとって邪魔な人間を疎外するために作られた言葉のようなものなのだ」

 

 参考資料:オットー・レーマー少将は語る
(アドレス:http://www.bunkyo.ac.jp/~natasha/revisionist/remer_01.htm)
[ヒトラー暗殺事件鎮圧後の]5ヵ月後、レーマーは、失敗に終わった「バルジの戦い」=アルデンヌ 攻勢でエリート部隊「装甲総統警護師団」を指揮していた。1945年1月30日、ヒトラーによって少将に昇進し、続いて、伝説的な「装甲総統警護師団」の 兵1万を率いることになった。戦争最後の数ヶ月、彼と彼の部下は圧倒的なソ連軍と戦い、それによって、赤軍の侵攻から逃れてくる数十万の難民を救った。
レーマーは戦闘では際立った勇気と大胆さを発揮し、何度も負傷した。ドイツでもっとも名誉のある勲章のいくつか、すなわち、騎士戦功鉄十字章、ドイツ金十字章、柏葉つき鉄十字章、戦傷金章、近接戦闘銀章を授与されている。
(中略)
レーマーについては長年にわたって数多くの新聞記事が登場したが、その多くにひどい嘘がある。例えば、彼は再三にわたって、「SS隊員」であったとか、 「SS将校」であったと言われてきたが、それはまったく間違っている。彼が民族社会主義ドイツ労働者党員であったことはまったくない。

1944年7月20日の企てが成功していたとすればどの ような事態となったのか?これはまったくはっきりしています。東部戦線では、この当時すでに熾烈な防衛戦闘が繰り広げられていましたが、内乱が生じて、補 給が途絶えてしまえば、東部戦線は崩壊してしまったに違いありません。…しかしながら、東部戦線の崩壊は、さらに数百万のドイツ軍兵士をロシアの死の捕虜 収容所に送り込むことを意味するだけではなく、ドイツ帝国の東部地域で暮らしていた数多くの女子供の疎開、もしくは、西側連合国のテロル的空襲の結果東部 地域に疎開してきていた人々の疎開を妨害してしまうことを意味するでしょう。
・ 思考力のある兵士であれば、東部戦線での自分たちの経験にもとづいて、この戦争に負ければ何が起るのかを知っていました。ドイツ軍兵士は、わが国の生存の ためにこの戦いが必要であることを深く確信していました。われわれは征服欲からロシアを攻撃したわけではありません。むしろ逆です。ソ連が256個以上の 師団からなる優勢な兵力を配置して、適切な時期を捉えてヨーロッパに侵攻しようとしていたので、われわれは行動せざるをえなかったのです。

Q:ヒトラーの政策、とくに対ソ政策に賛成していましたか?
A:対ソ戦についてですね。
まず、1941年初頭のユーゴスラヴィアとギリシアでのバルカン作戦時点で、われわれがソ連国境全体に10個師団しか配置していなかったのに対して、ソ連 軍はわが国との国境地帯に247個師団を配備していたことを知っておかなくてはなりません。バルカン作戦が終わると、われわれはソ連との国境地帯にすみや かに170個師団を配備しました。ソ連軍は攻勢に出る準備をすでに整えていたのです。緒戦でわが軍がソ連軍に対して勝利を収めたのは、ソ連軍が守備的な地 点に駐屯しているのではなくて、攻勢に出るために前線近くに駐屯していたためです。このために、わが軍はすみやかにソ連軍を包囲することができました。で すから、戦争の最初の数週間で、わが軍は300万以上の捕虜と膨大な軍需物資を手に入れることができました。そのすべてが、攻勢に出るために、前線近くに 配備されていたからです。これが真相ですし、それを証明もできます。最近、長距離偵察機のパイロットであったペムゼル氏と話す機会がありました。対ソ戦が はじまる前、彼はドン川付近にまで飛行して、国境地帯にソ連軍が多数集結していることを観察し、それを報告しています。
ソ連軍がヨーロッパに侵攻する準備をしていたことについては、対ソ戦での私自身の経験、ソ連軍捕虜の尋問から知っていました。ロシア人は、われわれがイギリスに進撃する機会を利用して、ヨーロッパを蹂躙しようとしていたのです。

Q:対ソ戦が1940年11月のヒトラー・モロトフ会談ののちには不可避であると考えていましたか?
A:ソ連の外務大臣モロトフはダーダネルス海峡を要求しました。これは、トルコ領である外国の領土を引き渡してしまうことになります。ですから、モロトフ は、答えることのできない挑発的な要求を突きつけてきたことになります。総統は、ソ連がルーマニア領を平時に奪ったことも知っていました。また、ソ連が ユーゴスラヴィアのベオグラードで反ドイツ蜂起を組織していたことも知っていました。ドイツとソ連の関係を引き裂いたのはロシア人なのです。総統がソ連攻 撃に傾き始めたのは、ドイツとヨーロッパに対するソ連の攻撃の準備が進んでいることについて、再三報告を受けたあとのことです。ですから、
私は、総統がもともとはソ連攻撃を計画していなかったと確信しています。総統は、状況の変化に対応していたのです。

 

 

 「レーマー将軍によれば、ドイツ軍はソ連軍の正確な位置や規模までは知らなかったが、ソ連がドイツ侵攻作戦を準備していたことは知ってたということになる。

偶然予防戦争の形になったのではない。

ドイツが準備不足のまま戦争に突入した理由は、ソ連が実際にドイツ侵攻作戦を準備していたからなのだ。

ソ連を短期間に屈服させられるだろうという楽観的な予測があったというのはあくまで副次的なものに過ぎない。

ただし楽観的な予測を立てたアドルフ・ヒトラーが愚かだったという意見には異論はない。

ロシアの冬将軍を舐めていたのは愚かだった。

ロシアの大地は人間の住むような場所ではないのだ。

しかし、そのドイツ軍が赤軍の撃破寸前にまで到達していたという事実を無視してはいけない。

アメリカ、イギリス、フランス、その他の同盟国が、武器、トラック、糧食、その他の軍需物資をスターリンに提供しなかったとすれば、独ソ戦の推移はまったく異なったものになったことであろう。

戦争直前のドイツは敵国に囲まれ、自国の数倍の規模の赤軍がドイツ侵攻作戦を準備していた。

何もしなければ赤軍が襲い掛かってきたのだから、どの道戦争は避けられなかった。

となれば、博打を打ってでもバルバロッサに賭けたのは愚かの一言で済ますべきではない。

愚かだったのはバルバロッサに賭けたことではなく、戦争に負けたことなのだ」

 

 参考資料:独ソ戦の歴史的修正 ドイツとロシアの歴史家論争 著D. マイケルズ
(アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/michaels_01.htm)
 バルバロッサ作戦第4ヶ月目の終わり頃、すでにドイツ経済は悲鳴を上げていた。軍 需生産の責任者フリッツ・トットは、休戦の締結をヒトラーに進言している。ドイツ軍は、燃料不足のために、大規模な戦車作戦を遂行できなくなっていた。ド イツの機甲部隊は、戦車の数が限られていたために、予測しえない緊急事態に備えて長い戦線をカバーしなくてはならず、そのことがまた、燃料不足をもたらし た。(大規模な電撃戦は、敵軍を広範囲に包囲して、投降に追い込むことができる。その際、戦車はある地点からすぐに別の地点に移動し、また、すぐに戻って くることで、広範囲な包囲網を閉じなくてはならなかった。)

 参考資料:独ソ戦の歴史的修正 ドイツとロシアの歴史家論争 著D. マイケルズ
(アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/michaels_01.htm)
スヴォーロフはスターリンの指導力を過大評価し、一方では、ヒトラーを酷評しているが、そのことは、ドイツ軍は赤軍の撃破寸前にまで到達していたという事 実を無視している。アメリカ、イギリス、フランス、その他の同盟国が、武器、トラック、糧食、その他の軍需物資をスターリンに提供しなかったとすれば、独 ソ戦の推移はまったく異なったものになったことであろう。さらに、長期にわたる独ソ戦を通じて、ドイツ側は、戦争努力の20−30%を西部戦線に向けなく てはならなかったという事実も忘れてはならない。
スヴォーロフは、スターリンがヒトラーを操って、ヨーロッパでの汚れ仕事を行なわせたと考えているが、これは支持しがたい。それは、ソ連の指導者の買かぶ りすぎである。ドイツは西方での戦争を望んでいなかった。まして、イギリスに対する戦争を望んでいなかったからである。たしかに、フランスは、とくに、ブ ルムの人民戦線時代には、ドイツに敵対的な政策を採っており、ドイツはこのフランスを疑ってはいたが。
ドイツがソ連に対する不運な侵攻を企てたのは、敵がドイツを包囲することに成功したためであったことを想起しなくてはならない。1930 年代、イギリスとフランスの外交政策は、ドイツを敵国で包囲することに成功した。そして、スカンディナビアでもバルカンでもドイツは包囲され、最後に、ア メリカ、イギリス、ソ連によって包囲された。ドイツは、ソ連と西側諸国の軍備が増強されていく中で、赤軍が奇襲のチャンスをつかむ以前に、この包囲網を断 つという絶望的なギャンブルにでたのである。たしかに、このギャンブルは失敗してしまった。しかし、今日のドイツは、それが望んでいたよりも小国となって しまったが、繁栄した国となっており、一方、スターリンのソ連邦の残骸は、帝政ロシアの遺産を奪われて、経済的なバスケットボールの籠にすぎなくなってし まっている。

 

 「さて、これだけでは短いので独ソ戦におけるドイツと地元住人の関係は比較的良好だったことにうちて少し触れておこう。

独ソ戦においてソ連が嫌いな数百万人の人々がドイツ軍に味方をしていたのだ。

ドイツ軍はバルバロッサでソ連に攻め込んだとき、バルト三国の地元住人はドイツ軍を共産主義からの解放軍として向かい入れた。

ドイツ軍が指示したわけでもなく、ドイツ軍には花束が贈られ、地元住人から歓迎された。

これについてはその当時の動画が残ってる。

ナチス・ドイツ軍の敵はロシア人でも東ヨーロッパの地元住人でもない。

地元住人を戦争に駆り立てるヨセフ・スターリンとその手先の共産主義者だったのだ。

ソ連政府は成立当初からユダヤ系が多く占めていた。

実際にレーニンやスターリンの手先となって現場で人々を弾圧していた秘密革命警察機関チェカー[内務人民委員部の前身]のユダヤ系の割合は非常に高かった。

これは具体的な数字が存在する資料がいくつもある。

1934年のソ連では、総人口のわずか2%がユダヤ系にすぎなかったが、チェカーの指導者の39%がユダヤ系だった。

ユダヤ人の割合はロシア人の割合36%さえも上回っている。

ウクライナでは、チェカー構成員の75%がユダヤ系だった。

だから「ユダヤ人=共産主義者」と見ていたのはナチスだけではなかった。

ソ連の地元住人もユダヤ人=共産主義者と見ていた。

同時にこのスターリンの手先に対しての感情は殺意にまで高まっていた。

ユダヤ人が地元住人に嫌われていたことに関しては、戦時中のソ連人民委員の資料とも一致する。

地元住人がユダヤを嫌ったのは宗教や人種による反ユダヤ主義でなく、共産主義者だったからだ。

ドイツ軍がソ連に攻め込んだとき、ソ連軍は急いで退却していった。

このときソ連は収容所の民族主義者を虐殺していった。

これをやらせたのがスターリンの手先の人民委員で、彼らの多くはユダヤ人だったのだ。

地元住人の反ユダヤ感情は高く、ドイツ軍を無視して地元住人がユダヤ人を虐殺し始めた。

ソ連の地元住人はドイツと戦争する気はなかったが、彼らを背後から機関銃で脅して戦わせたのも人民委員だったのだ。

当然、ドイツはこの人民委員、すなわちユダヤ-ボリシェヴィキの殺害命令を出した。

ユダヤ人共産主義者さえいなければ、やる気ゼロのソ連軍は自動的に降伏するのだから当然だ。

「ユダヤ人=共産主義者」というのは必ずしも正しくは無い。

だが、ユダヤ人には共産主義者が多かったことも事実だ。

戦時中、民族主義者によるこの同一視は徹底していたため、無関係のユダヤ人が大勢犠牲になっただろう。

だがそれは戦争だから仕方ないことだ。

もしもこのことを非難するならば、その責任はドイツではなく、ユダヤ人に汚れ仕事をさせたスターリンにあるのだ」

 

ソビエト連邦の政治委員・政治将校 wikiより
成立当初の赤軍には正規の軍事教育を受けた者はほとんど存在しなかった。「武装された労働者の革命軍」から「革命を防衛するための国軍」へと再編成するの が急務であった。 革命政権は旧帝政ロシア軍の将校を「軍事専門家」として部隊に配置することとしたが、敵階級でありブルジョワである将校達にも協力する意思はほとんどな く、職務放棄が相次いだ。1918年4月、最高軍事会議直属のコミッサール(政治委員)が全軍に配置された。政治委員は部隊の命令に副署する権限が与えら れ、政治委員の副署のない命令には部隊は服従してはならないこととされた。また将校の抗命を抑えるため「射殺を含めあらゆる手段によって、反革命分子に対 して非情に対処する権限」(トロツキー)を有すると宣言された。
本来政治委員の職務は軍内部のプロパガンダと政治的忠誠心の保持であり、作戦を司る将校とは権限や指揮系統が完全に分離されていた。しかし政治委員は革命 権限の名の下に将校を圧倒し、頻繁に作戦事項に介入して混乱を招いた(二元統帥問題)。こうした事態を受けて1931年に一旦は政治委員制度は廃止され た。しかし共産党が軍隊を開放したわけではなく、軍内部のプロパガンダ活動は「指揮官政治補佐」へと引き継がれた。これがいわゆる「政治将校」である。し かし赤軍内部の大規模な粛清が行われると、党員将校を補完する目的ですぐに政治委員制度へと復帰した。第二次世界大戦中、ニキータ・フルシチョフ、レオ ニード・ブレジネフなどは政治委員として辣腕を振るう。また、ヒトラーは政治委員を捕虜とせずのコミッサール命令(en)を出していたために捕虜となった 多くの政治委員が処刑された。また
、作戦が失敗すると政治委員は上層部から強く責任追及され、処刑される者もいた。そのため、政治委員はしばしば部隊に無理な作戦行動を強いて、多大な犠牲を出すこともよく見られた。

 「銃は2人で1丁だ!銃を持った者は敵を撃て!銃を持たぬ者は後に続くんだ!

銃を持った者が撃たれて死んだときには、銃を持たないものがそれを拾って代わりに撃てぇ!

同志スターリンの名において命令する!一歩たりとも後退するな!後退した者は撃ち殺す!」

 「マジか…」

 「ふぅー、びっくりした。

大多数がスターリンのために戦いたくないなんてホントかなぁ?

でもサイレントマジョリティを考慮して戦うことに決定♪

だってもしも退却したら人民委員が処刑されちゃうから仕方ないよね」

 「…。

アドルフ・ヒトラーが権力を握る10年以上前、1918年にロシア革命が起きたそのときからロシアでは反共産主義の運動が起こり、ソ連当局はそれらを弾圧してきた。

ソ連の政治指導者は国民の暮らしなど考えなかった。

ソ連の国力のすべては国民のためではなく、独裁者の権力と支配力を強めるために使われた。

1941年、ロシア国内では大量テロル、迫害、国民的零落、飢餓が進行していた。

そこにドイツ軍が攻め入った。

1941年6月22日の時点で、赤軍には530万人がいた。

しかし、同年10月までに、この軍隊はもはや存在していなかった。

80万ほどが殺され、450万人は、戦うよりも、捕虜となることを選択した。

スターリンが「阻止部隊」の設立を命じたのは、開戦わずか数週間後のことだった

 

 参考資料:ホロコースト講義(2.20ホロコースト産業)著:ゲルマル・ルドルフ
(アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/lectures/2992.htm)
L:しかし、ドイツ国会議員マルチン・ホーマンのケースを見れば、すべてのドイツ人が感謝を表明するという義務を果たしているわけではないことがわかります。彼は、2004年に、自国民の恥辱を突きつけられることに感謝していない件で、強く批判されました。
R:ホーマンは、ドイツ人に対する「犯罪民族」というレッテルを拒絶したにすぎません。しかし、彼はこのために攻撃されているのではありません。ユダヤ人 も、ソ連の初期のテロル時代には、犯罪者であったと主張したためなのです。ホーマンは、前述した学問的研究にもとづいて、こう述べたのです[5]。
「1917年のボリシェヴィキの政治局員7名の うち、トロツキイ、カーメネフ、ジノーヴィエフ、ソコリニコフがユダヤ人だった。非ユダヤ人はレーニン[もっとも彼の母はユダヤ人だった]、スターリン、 ブーブノフだけであった。1917年のロシアの中央革命委員会のメンバー21名のうち、6名がユダヤ系であり、28.6%であった。共産主義運動の創始者 たちや革命委員会の中でユダヤ人の割合が極端に高いのは、何もソ連だけに限らない。ラサール、ベルンシュタイン、ローザ・ルクセンブルクもユダヤ系であっ た。1924年、ドイツ共産党の6名の指導者のうち4名がユダヤ系であった。4分の3である。ウィーンでは、オーストリアのマルクス主義の指導者137名 のうち81名、すなわち60%がユダヤ系であった。ハンガリーでは、48名の人民委員のうち30名がユダヤ系であった。ソ連の秘密革命警察機関チェ カー[内務人民委員部の前身]の中でも、ユダヤ系の割合は非常に高かった。1934年のソ連では、総人口のわずか2%がユダヤ系にすぎなかったが、チェ カーの指導者の39%がユダヤ系であった。ソ連はユダヤ人を民族集団とみなしていたことに留意すべきである。ユダヤ人の割合はロシア人の割合36%さえも 上回っている。ウクライナでは、チェカー構成員の75%がユダヤ系であった。」
第一講の中で、私は、1917年から1937年の初期のソ連時代、ユダヤ人がテロル機関を支配していたとしてきました。ボリシェヴィキ革命に関する研究書 を読めば、この当時、世界中のユダヤ人および非ユダヤ人がボリシェヴィキ革命のことをユダヤ人革命とみなしていたことがわかります。初期ソ連の革命政府の ポストの多くをユダヤ系の人々が占めていたからです。

 (アドレス:http://www2u.biglobe.ne.jp/~Trotsky/30/antisemi.html)
しかし、それだけではない。ソヴィエト体制は、実際には、一連の新しい現象を生活に持ち込んだ。それは、民衆の貧 困と低い文化性のもとでは、反ユダヤ主義的気分を新たに呼び起こす可能性のあるものであり、実際呼び起こしている。ユダヤ人は典型的に都市住民である。ウ クライナや白ロシアでは、さらには大ロシアにおいてさえ、ユダヤ人は都市住民のかなりのパーセンテージを占めていた。ソヴィエト体制は、世界の他のどの体 制にも見られないほど多くの役人を必要とした。役人は、都市住民のなかの比較的文化性の高い部分から徴集された。当然のことながら、ユダヤ人は、官僚の中に、とりわけ中下級官僚の中に、不釣り合いに大きな割合を占めた。も ちろん、この事実に目をつぶって、すべての民族の平等と友愛という一般的な美辞麗句でお茶を濁すことはできる。しかし、ダチョウの政治[自己欺瞞の政治の こと]はわれわれを一歩たりとも前に進めはしない。官僚に対する農民と労働者の反感はソヴィエト社会の基本的事実である。専制的体制、あらゆる批判に対す る迫害、生きた思考の圧殺、そして最後に、でっちあげ裁判、これらは、こうした事実の反映にすぎない。したがって、官僚に対する反感が反ユダヤ主義のニュ アンスを帯びることになると、アプリオリに判断することさえ可能である。とりわけ、ユダヤ人官僚が住民のかなりの部分を締め、大多数の農村住民に対して目 立った地位にあるような場合には、そうだ。

 参考資料:パルチザン戦争と報復殺人 著:G. ルドルフ、S. シュレーダー
(アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/rudolf_06.htm)
 このような報告措置の犠牲者を選択するにあたっては、ウクライナ人、ベラルーシ人、バルカン諸民族、バルト諸 族、カフカース諸族は選択されなかった。彼らの多くは、ドイツ側に味方して戦っていたからである。ユダヤ人がこうした諸族のあいだでとくに嫌われるように なったのには、近年の出来事が関連していた。すなわち、ここ数十年のあいだ、多くの人々が、共産党の人民委員から恐ろしい経験をしてきたが、人民委員の多くが、とくに、ソ連のボリシェヴィズム時代の最初の数準年間には、ユダヤ系であったからである。ロシア系ユダヤ人女性ソーニャ・マルゴリナは、ボリシェヴィキによるテロル支配に関与したロシア系ユダヤ人について、次のような興味深い指摘をしている[66]。
(中略)
民族社会主義者と、自分たちの自由を求めて闘っ た東ヨーロッパの諸民族は、ユダヤ人一般をボリシェヴィキのテロル、人民委員の活動と同一視していた。この同一視は、徹底的であり、広範囲にまたがってい たけれども、正しくはない。しかし、以上のようなことを考えると、こうした同一視が登場し、広まっていった状況は理解できるものであろう。だ からこそ、パルチザン戦争やその他のソ連による戦争犯罪の犠牲者とならなくてはならなかったのは、まず第一にユダヤ人であった。このことを非難するとすれ ば、東部戦線でのパルチザン戦争の責任者が誰であったのかを看過すべきではないであろう。その責任者とは、戦争が始まる前から、ヒトラーと同じように、自 分の支配下にあるユダヤ人を過酷に扱ってきたスターリンなのである[69]。

 参考資料:オットー・レーマー少将は語る
(アドレス:http://www.bunkyo.ac.jp/~natasha/revisionist/remer_01.htm)
Q:以前、ユダヤ人人民委員について話されていますね?
A:問題は、ドイツ軍やその他の国々の軍隊とは異なって、ソ連軍には、指揮官とともに、命令を発する権限を持つ政治人民委員がいたことです。ほとんどがユダヤ人でした。
例えば、[ウクライナの]リヴォフの東のタルナポリとゾロチェフで、軍事攻勢がすみやかな成功を収めたときの事例をあげておきます。私自身が経験したもの です。われわれはゾロチェフを占領し、2両の戦車が遅れて続いていました。敵の反撃があるのか、それともこのまま攻撃を続けるのかはっきりしていなかった ので、わが軍は町外れで休息をとっていました。戦車の到着待っていたのです。この小さな町で、私は幼い子供たちが窓から放り出されているのを目にしまし た。また、通りに倒れた女性が棍棒で死ぬほど殴られているのを目にしました。彼らはユダヤ人でした。
私は[地元の]女性を呼びつけました。彼女は私の車にやってきて、「私たちがなぜ困難ことをしているのか教えてあげます」と言いました。われわれは車で地 元の刑務所に向かいました。囚人が散歩するための、壁で囲まれた区画がありました。そこには、死体がうずたかく積み上げられていました。まだ、血を流して いる死体もありました。2時間ほど前、ソ連軍が撤退するときに、ソ連兵は、投獄されていた地元をウクライナ人民族主義者たち全員を機関銃で銃殺したので す。これをやらせたのがユダヤ人人民委員でした。だから、地元のウクライナ人たちがユダヤ人にポグロムを行なっていたのです。ウクライナ人は、ユダヤ人を 見かければ、すぐに殺しました。われわれはこの当時、地元の事柄に影響を与えることがまったくできなかったにもかかわらず、このポグロムの件で非難されて いるのです。われわれが秩序を回復することができたのはかなりあとのことでした。

 参考資料:ホロコースト講義 著:ゲルマル・ルドルフ
(アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/lectures/2994.htm)
マーザー教授はドイツ軍がソ連による虐殺行為を発見した文脈の中で、連合国による虐殺宣伝をとらえかえしています。ド イツ国防軍は、独ソ戦の開始以来、ソ連による残酷な虐殺行為のあとを占領した大都市で発見してきました。ソ連軍は急いで撤退するにあたって、ウクライナ、 ロシア、バルト諸国の町の監獄に収容していた多数の反政府派を数十万単位で屠殺していきました。ドイツ軍は、町に入ると、腐った死体の散乱した監獄を発見 しました。ドイツはこの発見を使用して、ヨーロッパの青年が共産主義の脅威と戦うようにアピールしました。こ のアピールは、ドイツ軍が、ソ連による20000名ほどのポーランド人エリート死体の大量埋葬地――カチンその他――を発見したときにとくに成功を収めた のです[7]。数年間にわたって、ドイツは、100万以上の外国人義勇兵を対ソ戦に動員することに成功しましたが、この軍隊は、人類史の中で、外国と戦う 最大の義勇兵部隊でした。連合国は、こうしたドイツの宣伝の成功に対抗するために、同じような大量虐殺物語を必要として、それを苦労して作り上げ、それを 利用して、ドイツを非難しました。341頁に、マーザーは、イギリス心理戦争局、すなわちイギリスの嘘工場のボスであったEllic Howe[8]が、1943年のカチンの大量埋葬地の発見直後から、次のような捏造された内容のポスターをポーランド各地にばら撒いたことを個人的に認め ていることを伝えています。

 参考資料:ホロコースト講義 著:ゲルマル・ルドルフ
(アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/lectures/170.htm)
R:民族社会主義ドイツ労働者党がドイツで結成された1918年には、ロシアではすでに全体主義体制が成立しており、数十万人を殺戮していました。ヒトラーが権力を握ったとき、ロシアの全体主義体制は数百万を殺戮していました。領 内のドイツ系少数派とロシア系少数派を仮借なく迫害し、民族浄化していた[1]ポーランドと、ドイツ・ソ連とのあいだで戦争が勃発した1939年9月まで に、ロシアの全体主義体制は数千万を殺戮していました。さらに、ヒトラーがポーランド戦役後は何もしていなかったときに、スターリンはフィンランドを攻撃 し、エストニア・ラトヴィアに侵攻してこれを併合し、ルーマニアから暴力的にベッサラビアを奪いました。しかし、全世界は、スターリンこそが世界平和と人 類にとってより大きな脅威であるとみなすかわりに、ドイツに宣戦布告して、スターリンを無条件に支持することを決定したのです。この時点で、ひいては 1941年夏まで、ヒトラーによる死者の数は、スターリンによる犠牲者の数と較べると、圧倒的に少なかったはずです。そして、今日では、中国やカンボジア のキリングフィールドの犠牲者も含む共産主義の犠牲者の合計は、数千万に及んでいるのです。どうして、共産主義体制、とりわけスターリンが悪の権化とされ ていないのでしょうか? どうして、ホロコースト正史を支配する共産主義者と左翼勢力が寛容に受け入れられ、反面、民族社会主義者は悪魔に等しい存在とみ なされているのでしょうか? この裏にはどのような論理が隠されているのでしょうか? 実は、この裏には、まったく論理など隠されていません。一面的で、 歪曲された虚偽の歴史情報に由来する非合理的な感情に突き動かされているだけなのです。客観的、理性的に考察すれば、民族社会主義を共産主義よりも邪悪で あるとみなす理由はまったくないからです。むしろその逆です。

 参考資料:ソ連のパルチザンはユダヤ人問題をどのように解決したのか? 著:ボリス・ソコロフ
(アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/sokolov_01.htm)
大祖国戦争の悲劇的なパラドクスの一つは、ヒトラーの「ユダヤ人問題の最終解決」の犠牲者が、たとえゲットーや絶 滅収容所から脱出することに成功したとしても、パルチザンや地下活動家にまったく好意的には迎えられなかったことである。モギリョーフの地下運動指導者で 内務人民委員部書記補であったカジミール・メッテは1943年4月の報告書の中で次のように述べている。
「ドイツ軍は占領当初、すべてのユダヤ人を物理的に絶滅しようとた。この事実はさまざまな反響を呼び起こした。比較的少数であるが、住民の中でもっとも反 動的な分子は、この野蛮な行為をまったく正当化し、ドイツ軍に協力した。住民の基本的な部分は、野蛮な処分には賛成していないが、
ユダヤ人にも責任があり、全員がユダヤ人を憎んでいると考えている。ユ ダヤ人を経済的・政治的に抑圧すれば十分であり、銃殺は、責任ある職務についている人々に限るべきであるというのである。それ以外の住民、すなわち、ソ連 に共感している住民は、ユダヤ人に同情を寄せ、できるかぎり支援しようとしたが、ユダヤ人たちが町でドイツ人に抵抗しようともせず、またパルチザンに集団 的に加入しようともせずに、殺戮に身を任せているので、彼らの消極的な態度に憤っている。さらに、親ソ連的な人々は、戦前、多くのユダヤ人が収入の多く、 職場環境の良いポストにつくことをめざし、自分たちのあいだだけで助け合うシステムを作り上げ、ちょっとした反ユダヤ的な行動があっても、その責任を問う ことでロシア人を威嚇し、ロシア人と良い関係を作り上げるような振る舞いをしてこなかったと指摘している。今となって、同じユダヤ人がロシア人に助けを求 めているが、彼ら自身は何もしていないというのである。
このような住民の気分を考えると、煽動活動で、ユダヤ人を公然かつ直接に擁護することはできない。そのようなことをすれば、われわれの味方である、親ソ連 的な人々の側でさえも、われわれの宣伝パンフレットに不信を抱いてしまうにちがいないからである。ユダヤ人問題については間接的に触れるだけにしておかな くてはならない。すなわち、ファシズムは、自分たち以外の民族を憎悪しており、この民族を絶滅しようとしている、そして、ある民族を別の民族にけしかけよ うとしている、ユダヤ人と共産主義者との戦いというスローガンのもとで、わが祖国を滅ぼそうとしているなどというように宣伝しなくてはならな い。」(РГАСПИ, ф. 625, оп. 1, д. 25, л. 401-418)

 参考資料:ロシアにおける歴史的修正主義 著:ヴォルフガング・シュトラウス
(アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/strauss_01.htm)
1941年6月22日の時点で、赤軍には530万人がいた。しかし、同年10月までに、この軍隊はもはや存在して いなかった。80万ほどが殺され、450万人は、戦うよりも、捕虜となることを選択した。スターリンが「阻止部隊」の設立を命じたのは、開戦わずか数週間 後のことであった。映画制作者アレクサンドル・イヴァノフ=スハレフスキイは次のように述べている。
ソ連政府のために誰も戦おうとしなかった。誰 も戦争に行こうとはしなかった。ドイツ国防軍が攻撃を始めるやいなや、武器を捨てて、後方に身を隠し、故郷の村に戻っていった。赤軍が崩壊してしまうのを 阻止するために、機関銃を装備した阻止部隊が、前線と広報地帯のあいだの区域を封鎖した。それでも逃亡しようとしていた兵士は、前進して、ドイツ軍に投降 した。」(450頁)
共著者イヴァノフ=スハレフスキイは次のように述べている。
「ドイツ国防軍、すなわち第三帝国の軍隊は、ヨーロッパ文明の歴史の中で、とくに、一人の兵卒の命を尊重する点では最良の軍隊であった。」(437頁)
本書の大半は「ホロコースト」と「ユダヤ人問題」を扱っている。ミハ・シャフィルがEast European Perspectives誌(2002年6月12日号)で述べているように、旧東側陣営の修正主義的著述家と出版者の共通分母は、ホロコーストの「否定」 である。しかし、これはBig Civil Warの著者たちにはあてはまらない。ユダヤ人に対する迫害や虐殺の存在を否定していないからである。しかし、ここでは、「ホロコースト」という概念は別 の歴史的意味合いを持っている。すなわち、農民ホロコースト、ウクライナ人ホロコースト、カザーク・ホロコーストというように使われているのである (206f頁)。「カザークの殺戮」、「ウクライナ人の殺戮」、「スラヴ人の殺戮」、「農民の殺戮」が信じがたいほど大規模であったことを知ったとすれ ば、共産主義者の考え方がその当初から絶滅戦略であり、それゆえホロコースト・ポグロムであったことが理解できるであろう。

 

 

 「独ソ戦はドイツ人とロシア人の戦いではなく、民族主義と共産主義の戦いだった。

ドイツ軍はロシアを征服するためではなく、あらゆる民族を監獄に閉じ込めるソビエト共産主義体制を打倒するために戦っていた。

ソ連兵士も地元住人もそれを知っていた。

ロシア1000年の歴史でロシア兵が侵略者に数十万人単位の敵に自発的に降伏したのはこれが唯一の例だった。

ドイツ軍に協力するソ連兵や地元住人は大勢いたし、ドイツ側もそれを利用するために様々なことをしている。

例えば、赤軍はソ連領にあった教会を破壊したが、これを戦時中に修理したのはナチス・ドイツだった。

しかし実際にはドイツ軍はロシア人をそれほどうまく活用できなかった。

ロシア人捕虜には多くの死者が出たし、ロシア人義勇軍はソ連軍とはそれほど派手に戦闘していない。

これは冷戦時代には、ヒトラーはロシア人を劣等民族・征服対象であると見て信用してなかったという神話があった。

だが、歴史の修正が行われ、別の説が主張されている。

ドイツ軍に味方したヴラーソフ将軍のロシア解放軍の生き残りの兵士によれば、ソ連兵の捕虜が大勢死んだのはスターリンが焦土作戦を行ってドイツ軍の補給を潰したためだ。

ドイツ軍は捕虜を殺すつもりはなかった。

ベルリンは赤十字を介して捕虜に食料をよこすようにソ連に連絡をとっている。

ソ連はそれを無視した。スターリンは人民委員に脱走兵とその家族を殺すように命令を出している。

やはり、人民委員が狙われる理由がここにある。その責任はスターリンにあるのだ。

またオットー・レーマー将軍によれば、ドイツがロシア人をうまく活用できなかったのは、ただ単にドイツに武器が足りなかっただけだというのだ。

スペイン人も、アラブ人も、ロシア人やウクライナ人などの東ヨーロッパの民族も、ドイツ軍と共に連合軍と戦うためにドイツに武器を要求した。

しかしドイツは準備不足で戦争を始めたため、自分たちの分もそろってなかった。

ようやく戦時量産体制が整い始めたのは大戦末期。

ドイツが北アフリカのリビアに独立の軍事支援をしたのは1944年、ロンメル将軍とDAKはすでに北アフリカにはいなかった。

何もかもが遅すぎた。

20年以上の間、戦争の準備をしてきた赤軍と、それをバックアップする米・英の膨大な援助物資。

ドイツ軍は数に敗れたのだ。

こうした状況では、「ヒトラーがロシア人を信用して無かった」とかそんなことは副次的なものに過ぎない。

物理的に不可能なことだったから、それは誰がどうしたって不可能だったのだ」

 

 参考資料:――ナチス体制とスターリン体制の比較――著エス・エヌ・アズベレフ
(アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/azbelev_01.htm
 ナチスのイデオローグの多くはキリスト教に反するような主張を行なっていたが、キリスト教徒に対しては寛容であった。ドイツでは、宗教的な動機による迫害はなかった。一方、無神論者のボリシェヴィキが、教会、とくにロシア正教会、聖職者、信者たちにどのように振舞ったかはよく知られている。数万の寺院が冒涜・略奪、解体・閉鎖された。数万以上の聖職者、数百万の信者が物理的に絶滅された。ナ チスは、それまで権力闘争でのライバルであった共産主義者を迫害し、「疎外した」。ドイツでは、突撃隊とゲシュタポが、ナチズムに対する頑強な反対派を清 算した。約20万名のドイツ人を清算したという。この際、ナチスは、その多くが社会的に下層階級の出身であり、ドイツに「社会主義」をうちたてようとして いたにもかかわらず、社会的な反目を掻きたてようとはしなかった。彼らは、「階級的出自」にしたがって、旧王室関係者、皇帝に仕えていた貴族、将校、高級 官僚対しても、ドイツの大企業経営者、大商人に対しても迫害しなかった。これとは逆に、ボリシェヴィキは、こうした手段を使ってロシアに「社会主義」をう ちたてた。彼らは、身分的な出自や物質的豊かさにしたがって(「カザークの根絶」、「クラークの根絶」)数百万の土地所有者を――もっとも活動的であり勤 勉ではあるが、「社会的な疫病」であるとの理由で――迫害し、ひいては根絶した。ナチスは、ユダヤ人とジプシーを社会的な寄生虫と見なしたがゆえに、ドイ ツから追放した。しかし、いわゆる「ホロコースト」――ユダヤ人の大量絶滅――は、(ガス室その他と同じように)シオニストのプロパガンダである。ナチス がヨーロッパを支配している時期に死亡したユダヤ人の数は、600万人ではなく、50万人ほどである。こうした重要な側面を論じている最近の研究には、ス イス人歴史家ユルゲン・グラーフの『20世紀最大の嘘:第二次世界大戦中のユダヤ人虐殺の神話』がある。そのロシア語版は1997年にペテルブルクで出版 されており、1年前に、短縮版がモスクワで出版されている。しかし、この著作の購入は非常に難しい。もちろん、50万人という数字は少ないものではない。 しかし、比較してみなくてはならない。ロシアとその国民についていえば、レーニン時代やスターリンの抑圧時代の「赤色テロル」によって世襲貴族、一代貴族 が被った損失は、とくに、内戦時に国内の敵からロシアを守るために死亡した人々を付け加えれば、はるかに多い数となる。裁判なしで共産主義者に殺された人 々、ソ連の強制収容所、流刑地、特別居住地で死亡した人々、ヴォルガ川流域地方とウクライナで、ボリシェヴィキが人為的に引き起こした、前代未聞の飢饉で 死亡した人々、すなわち、ロシアにおける共産主義体制の直接の犠牲者は、6200万人にものぼり、その数は、第二次世界大戦前夜のドイツ国民の人口にほぼ 匹敵する。

 参考資料:ヴラーソフのロシア解放軍について
(アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/vlasov_01.htm)
 1941年、ロシア国内では、大量テロル、迫害、国民的零落、飢餓が進行していた。このとき、ヒトラーの率いる ドイツがソ連を攻撃した。戦争が始まると、ドイツは大量の宣伝攻勢を開始し、憎むべきソ連体制の犯罪性を数多く暴きたてた。飛行機は数百万のパンフレット を前線や後方地帯にばら撒き、共産主義と戦うために、ドイツに降服せよとロシア人に呼びかけた。ドイツ軍が戦っているのは、ロシア国民ではなく、共産主義体制であるというのである。
ドイツの宣伝は燎原の炎のように広まった。ソ連軍兵士は数十万単位でドイツ側に寝返り始めた。ロシアの軍事史上初めて、ソ連軍の制服を着たロシア人兵士 が、自発的に敵側に寝返っただけではなく、共産主義と戦うために、武器を与えてくれとドイツ側に要請したのである。ドイツの現場司令官たちは、ドイツの政 治的指導部の真意を知らず、自分たちの宣伝を真に受けて、ソ連軍捕虜をドイツ軍に受け入れた。ソ連軍元帥や将軍たちの回想録には、この時期の戦争の実情が 歪曲されて描かれている。しかし、ドイツ軍が成功を収めたのには、まったく客観的な原因があったのである。1941年の秋までに、ドイツ軍はヨーロッパ・ ロシアのかなりの部分を占領し、モスクワから数kmのところにまで迫っていた。このときまでに、ドイツ軍に降服したソ連軍兵士は400万ほどに達してい た。ソ連邦の余命はいくばくもないかのようであった。
(中略)
戦争が始まったとき、ヴラーソフは第4機械化軍団長であり、そのために、ドイツ軍の最初の攻撃を引き受けることになった。彼は、開戦当初から、民衆が共産主義者=抑圧者に憎悪を抱いていることを知っていた。
数 千トンのドイツ側のビラにこたえて、赤軍兵士は数十万単位で、ドイツ側に寝返っていた。数千数万のロシア軍兵士が武器を捨てて、敵に寝返るようなことは、 ロシア1000年の歴史の中で前代未聞のことであった。キエフ地方だけで、何と64万人の兵士と将校がドイツ軍に投降したのである。
(中略)
ソ連軍元帥や将軍の回想録の中では、赤軍兵士と将校が自発的にドイツ軍に投降した事実については一言も触れられていない。武器、弾薬、食料の全面的不足だ けが語られている(24年間にわたって、戦争の準備を整えてきた国で、どうしてこのような事態が生じたのであろうか。不可解である)。
(中略)
結局、東方部隊、武装SS師団、カザーク人部 隊、ヒヴィ、補助警察の中で、スターリンに対して、もしくはドイツ側にたって戦った(もしくは協力した)ソ連市民の合計は150万から200万人であっ た。ヴラーソフ将軍の指揮する実際のヴラーソフ軍が、ソ連軍との戦闘に参加したのは一度だけであった。

 参考資料:旧ヴラーソフ軍兵士の手紙 著:エフ・レゴスターエフ
(アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/legostaev_01.htm)
国際赤十字は、ベルリンの意を受けてソ連政府に対して、捕虜を飢餓から救うために、赤十字を介して食糧を送ることを提案しました。この提案に対するスターリンの回答は、その提案を受け取る前にすでに出されていた1941年8月16日の命令第270号の中で明らかにされています。
「赤軍兵士の部隊が、敵に反撃を組織する代わりに、投降することを選択した場合には、陸軍と空軍の全力を尽くしてこの部隊を殲滅すべし。投降者の家族から 国家扶助・保護を剥奪すべし。敵に投降した指揮官と政治人民委員は、最悪の脱走兵とみなすべし。その家族は、祖国への忠誠義務に違反し、自分の祖国を裏 切った脱走兵の家族として逮捕すべし。」
こうして、輪は閉じられたのです。ドイツ軍はたとえしようとおもっても、数百万の捕虜に食糧を供給することはできませんでした。そして、そのことは、敵軍 の大量殲滅という彼らの政策に符合していました。スターリンの政府も私たちをまったく見捨て、スターリン自身も捕虜となった自分の息子を見捨てたのです。
(中略)
政治人民委員たちはドイツ軍の捕虜になることの恐ろしさを喧伝していましたが、赤軍の小隊全体が、ひいては部隊全体が指揮官とともにドイツ軍に投降しまし た。ロシア国民は、憎むべき共産党権力に対して戦おうとしていたのです。すでに1941年夏から、ロシア人志願兵が、最初は補助隊員として、のちには兵士 としてドイツ軍部隊に登場するようになりました。1941年末には、ロシア人だけの独立した部隊が組織され始めました。ロシア人だけではなく、ロシアのそ の他の諸民族の部隊でした。ドイツ軍司令部は、ロシア人志願兵だけの78の大隊が東部戦線のドイツ軍の中で戦ったことを認めています。1943年の夏に は、東部戦線のすべての作戦地域で、ソ連邦の諸民族の90以上の連隊(ドイツ軍指導部はその存在をなかなか認めようとはしませんでしたが)ともっと小さな 部隊が少なからず存在していました。

 参考資料:オットー・レーマー少将は語る
(アドレス:http://www.bunkyo.ac.jp/~natasha/revisionist/remer_01.htm)Q:ロシア人たちは虐待されなければ、ドイツ人と戦わなかったでしょうか?
A:
ウクライナ人やカフカース地方の人々はわれ われの側に立って、戦おうとしましたが、われわれはそれを活用できませんでした。十分な武器がなかったからです。戦争では、理論的にはこうすればよかった という点が多々ありますが、実際には、実行できないことも多いのです。アラブ系の人々も、自分たちの解放を求めて、われわれに武器を要求しました。スペイ ンの指導者フランコも、参戦の条件として武器を要求しましたが、われわれ自身にも武器は不足していたのです。ド イツの軍需産業計画は、対ソ戦の進行まで見通していませんでした。われわれは3260両の戦車から始めました。それがすべてでした。しかし、ソ連軍は 10000両を持っていたのです。当時、ドイツの戦車生産は月35両でした。想像できますか!月1000両という頂点に達したのはやっと1944年10月 のことでした。ドイツの戦車生産は1941年の月35両から、1944年末の月1000両にまで上昇しました。これほどの相違があったのです。これこそ、 われわれが世界戦争など軍事的に準備していなかった証拠です。

 

 「今回は修正される独ソ戦ということで、図書館や本屋で売ってるような「連合国から見た歴史観の独ソ戦」とは少し違ったものを紹介した。

またネタがあったら更新しよう。今回は以上だ」


次回に続く

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