「いや〜魁!碧塾も第4回に突入ですね。」

 「ああ、一時はこのまま第一部完だと思ったけどな。」

 「ギリギリセーフやな。」

 「でもまさかここまで遅れるとは思っても見なかったんで、資料全然調べて無かったみたいですけど。」

 「まあそういう時はあれよ、そこらへんの総集編でお茶を濁すのよ。」

 「こんなコンテンツ誰も見てないから、やつら全員騙せるな。」

 「うぉい!!

 「じゃあ、定番の思い出話でもするか。」

 「いろんなことがあったな、五式天城が自転車買い換えたり、五式天城が大学の歴史コース選択から落ちたり、五式天城が大学の歴史コース選択から落ちたり。

 「ちょー!!それ大っぴらに言わないこと!!しかもコース選択のこと2回言うの!!」

 「どーでもいいから水原、なんか振り返れよ。」

 「嫌ですよ、私は過去を振り返らない主義なんです。」

 「おー、よみのくせに言うようになったな、さすが第4回になれば人間変わるな。」

 「変わる変わる、半年あればピザだったオレも、今ではスリムでモテモテに!!

 「無いから!それ絶対にないって知ってるから!!」

 「今ならロイヤルゼリー一缶サービス!!」

 「いらないよ!って言うか家に余ってるよ!!」

 「申し込んだのかよ・・・」

 「疑うことを知らない無垢な少女だったんだよ」

 「ちゃっちいダイエット療法より納豆のほうが効くよ」

 「効かないよ!!騙されてるよ!!」

 「納豆はアレだ、賞味期限切れの納豆を毎日1パック」

 「どこのあるあるですか!そもそもあるある、もう打ち切りですよ!!」

 「ああ、何時の間に打ち切りになっちゃったのかなあるある、テレビに騙される人間と騙されない人間の節目はあるあるだなあ」

 「微妙な節目ですね・・・」

 「お前な、あるあるを馬鹿にするやつはあるあるに泣くぞ!!」

 「泣きませんよ!!」

 「毎日酸素入り水を飲んでみたり、ブルーベリーご飯を毎日食べたりしてみろよ!!」

 「しませんよやりませんよ!っていうかどうして今回に限ってこんなにあるあるネタ攻めなんですか!アンタはあるある村の住人ですか!!」

 「ってあたりで5ページ目ぐらいか」

 「まだまだ、これで1ページぐらいよ、まだまだ先は長いわ。」

 「なんかこれ、このままやってるとえらい人に怒られそうな気しませんか?」

 「偉い人?誰や?」

 「いや・・・まあ・・・今これをアップしてくれてる人とか、掲示板に張ってくれてるって言うか、世界史コンテンツリンクに乗っけてもらってるっていうか・・・」

 「ったーくめんどくさいわね、仕方ない、始めるわよ!!」

 

魁!碧塾!第4話
☆前回書き終えたときは自民党総裁選のあった日でした☆
 

 「まずは前回のおさらい、スペイン継承戦争では実質的にイギリスが勝利し、フランスはそれまでの優位を失うこととなったわ。

 そしてこの戦争から台頭を始めるのが今回の主役の一つ、プロイセンよ。

 今回は英仏の対立から少し離れてプロイセンの膨張ともう一方のドイツの大国、オーストリアについて見ていくわ。」

 「ここでスペイン継承戦争終結時、1715年での主な国の状態を見ておこうか」

 

 

 

 

 「今回はロシアやデンマーク、スウェーデンといったヨーロッパ北部の国についての説明が多いですね」

 「そうよ、今回の前半戦の主役、プロイセンを語るためにはこれらの国についての情報が重要になるから。」

 

〜前半戦・野望の王国〜

 

 

 「上の表にある通り、当時のプロイセン王は『兵隊王』フリードリヒ・ヴィルヘルム1世、1713年の即位時には僅か24歳だった。」

 「彼の父、フリードリヒ1世は文化的な人間であったけど、彼は文化的なものには興味を示さず、軍備の増強と行政税の合理化に力を注いだわ。」

 「彼は国家収入の5分の4を軍隊に費やし、当時のヨーロッパで最も税金の高い国プロイセンでさらにそれに次ぐ大増税を行ったわ。

 都市に対しては消費税や国内関税、土地に対しては地租や軍税といったようにね」

 「当時のプロイセンに2ちゃんねらーがいたらすごいことになってただろうな」

 「でもこれは必ずしも負担を生むだけじゃなかったわ。

 これらの税の管理のためには大勢の役人を擁する財政管理機構が必要だったわ。

 これには絶対に信頼できるものでなければならなかったから、軍隊的規律が官僚には求められたわ。

 さらに彼はプロイセンの経済国家化も進めたわ。」

 「プロイセンは高い税を取り立てるために経済政策を推進し、大規模な資金融資を行い、産業を助成したわ。

 農村では軍服にもなる麻織物や毛織物、都市ではベルリンの王室用陶器工場などが助成の対象になったわ。

 他にも国立銀行や官営紡績工場の創立、オーデル川やハーフェル川の沼沢地の干拓に代表される土地改良や土地開発などによって多くの仕事をもたらしたわ。

 他に彼は移民に対する融和的政策も行ったわ。

 彼の父フリードリヒ1世がフランスの新教徒を受け入れたように、1732年に新教徒への弾圧が厳しかったオーストリアのザルツブルクから2万人の新教徒がプロイセンに移住し、ペストで大きな被害を受けていた東プロイセンへ活気を取り戻したわ。

 新教徒だけでなく宗教的迫害を受けた多くの移民、基督教のヴァルド派、メノー派、長老教会派、ユダヤ人、カトリックといった人々が彼らの言語や習慣を維持することが許されたわ。

 後のプロイセン改革時代の活躍者も多くがプロイセン出身者でなかったことからも、この移民政策が有効であったことがわかるわね。」

 


鷹(プロイセン)に庇護を求めるザルツブルグの農民を比喩した絵
 

 「これだけ見るとすごくいい国家に見えますね。」

 「でもプロイセンは別に博愛主義をモットーにしてたんじゃ無くて、ただ国家理性と軍隊中心主義のために実利を求めただけよ。

 でも確かに多くの移民が受け入れられたのは確かな事実ね。」

 

軍隊は金がかかる

多くの税収が必要

経済力の増大が必要

経済成長のために人口増加が必要

移民政策の推進

 

「どんな大きな富よりも、私は人間を尊重する」

 

 「もちろん彼は軍制改革にも取り組んだわ。特に注目するのは『徴兵区制度』ね。」

 「『徴兵区制度』・・・とは、何のことです?

 「選抜制兵役義務・・・とでも言えばよいかのう」

 「この元ネタがわかるやつがいるのか?」

 「MUSASHISTでもない限り無理だろうな・・・」

 「じゃあなんでお前はわかるんだよ・・・」

 「以前の兵士の集め方は事実上の拉致だったわ。

 これに対してフリードリヒ1世が設けたのが『徴兵区制度』よ。

 これは全国を500戸単位の徴兵区(カントン)に分けて、各徴兵区はそれぞれ特定の連隊に対する兵役義務を負う、と言うものだったわ。

 これの兵役義務は農村限定で、さらに商業や手工業を営む者、知的職業についている者、土地を所有している農民、マニュファクチュア労働者と言った人々は金を稼いで税金を納めることが優先であるとして初めは兵役を免除されたわ。

 兵役対象となった農民は最初の1年間に基礎訓練を受け、その後に年2回、2ヶ月間軍事教練に服すると言うことになっていたわ。

 平時には春と夏の閲兵式と演習のときに連隊に参加していれば、残りの期間は家にとどまっての仕事が許されていたわ。

 この『賜暇制度』によって農業への打撃は最小限に食い止められたわ。

 貴族もまた地方貴族の長の郡長(ランドラート)は軍隊や士官学校に郡の貴族の子息を送らなければならなかったわ。

 この政策は初めは貴族の反感を買ったものの、後に貧困な中小貴族はこれを身分にふさわしい『仕事』と生計の手段を提供する軍隊に次第に順応して行ったの。

 これらの改革によってプロイセンの兵力は38000人から81000人に大幅に増加したわ、これは総人口220万の30分の1が軍人という、まさに『軍事国家』だったわ。」

 「でもこれが必ずしも国民を苦しめたと言うわけではなかったんですよね。」

 「そう、プロイセンの軍事を支えるための実利主義によって確かに国は豊かになったわ。

 プロイセンは3つの事柄、『宗教』『民族』『社会』について無頓着だったわ。

 でもこれは前の2つに対しては必ずしもマイナスではなかった。

 プロイセンは特定の宗教や民族にこだわることは無かったわ。最後の『社会』に対する無頓着も、当時としては当たり前のことで特別プロイセンが責められることではなかったわ。

プロイセン最高の勲章である『黒鷲勲章』には『各人に各人相応のものを』と言う言葉が刻まれていたわ。

 これは『各人に各人の義務を』と言い換えればいいわね。

 プロイセンは厳しい義務を設けたけど、それをこなせば快適な国であったわ。

 『各人に各人相応のものを』は『好みは人それぞれ』と言い換えることが出来るわね。」

 

 

 「でも文化的なことは出てきませんね。」

 「ああ、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は文化的なことに関しては全く無頓着な人間だった。

 でも1つだけ趣味があった。それが巨人兵の収集だ。」

 「そりゃ興味を持つだろうな、旧世界を焼き尽くした兵器だから

 「それは巨神兵だ。フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は全ヨーロッパ中から大男を探し出して勧誘し、時には誘拐してまで自身の近衛連隊『巨人連隊』を構成した。

 彼はこれについては金に糸目を付けず、時には国際事件にも発展しかけた。」

 

 

 「それはまた悪趣味な・・・」

 「ちなみにその中には知的障害者までいたそうだ」

 「人権屋が聞いたらファビョりそうな話だな」

 「中にはある隊員が死ぬとその隊員の大理石像を作ったと言う話もある。」

 「それはまたマニアックな趣味だな」

 「ノッポ属性なんだろ」

 「なんだそりゃ」

 「アレだ、メガネ属性だのメイド属性だのがあるだろ、そのノッポ属性だ。ちなみに五式天城はメガネ属性だ。」

 「どうりで暦の出番が多いわけだ」

 「話を戻すわ、このように彼は国と軍を強化したけど彼の時代にプロイセンが行った戦争は北方戦争のみだったわ。ここからはこの北方戦争についての話よ。」

 

〜北方戦争〜

 

 「『れきしのおへや』さんの方が経緯が詳しいから細かい説明は省くけど、17世紀初頭、ロシアのピョートル1世は西へ貿易ルートの確保や自国の勢力拡大のためにスウェーデンに戦争を仕掛けたわ。

 これが北方戦争よ。この戦争は初めロシア、ポーランド、デンマークの北方同盟とスウェーデンの戦争だったわ。

 序盤は「北のアレクサンドロス」ことカール12世率いるスウェーデン軍が圧倒的に有利で一時はポーランド王アウグスト2世を追い出してスタニスワフ1世の傀儡政権を樹立させるほど優位に立っていたけど1709年のレスナーヤの戦いやポルタワの戦いで勝利した結果、北方同盟側に有利になったわ。

 またこの敗北の際カール12世のスウェーデン軍が陸路でオスマン帝国に逃亡したことからオスマン帝国がスウェーデン側で参戦したわ。

 もっともこれは同盟でなく、ロシアのみを相手にする戦争だったけど。

 オスマン帝国はモルダヴィアのプルート川の戦いでロシア軍を破りピョートル1世を捕虜にしたの。」

 「ロシアオワタ\(^o^)/

 「でもオスマン帝国のスルタン、アフメト3世は自国に近いアゾフ周辺のオスマン帝国への返還を条件としてロシアと講和したわ。」

 「アホかー!!

 「これはオスマン帝国にとって致命的な失敗だったわ。

 ここでロシアがピョートル1世を失えば北方戦争の戦況を覆すこともありえたし、スウェーデンの信頼も失った。

 何よりオスマン帝国自身がロシアの強大化に対抗できなくなる原因を作ったことにもなった。

 逆に言えばロシアにとってはアフメト3世さま様だったわ。」

 「歴史にイフは無いですけど、もしここでピョートル1世を討っていればその後のロシアの南下にも大きな影響が出ていたかもしれませんしね。」

 「プロイセンの話に戻ると、1715年にフリードリヒ・ヴィルヘルム1世はハノーヴァーと共にスウェーデンに宣戦したわ。

 この時既にスウェーデンはバルト海の制海権を失っていたわ。

 1718年にカール12世は狙撃され死亡し、王位は妹のウルリカ・エレオノーラが継いだわ。」

 「この時既にスウェーデン内部では講和交渉が行われており、カール12世の存命中交渉の主軸を握っていたのは彼の甥ホルシュタイン・ゴットルプ公カール・フリードリヒの派閥、親ロシア派の『ホルシュタイン派』だったけど、彼の死によってウルリカの夫、ヘッセン公フリードリヒの派閥、親プロイセン派の『ヘッセン派』が実権を握った。

 これによりロシアを除く北方同盟との講和条約『ストックホルム条約』が締結された。以下がその条件だ。」

 

 

 「これだけ見ると最初から戦っていたデンマークやポーランドは何も得ることが出来なくて、ロシア以外は事実上プロイセンの一人勝ちだな」

 「ポーランドは占領された領土を回復できてポーランド王アウグスト2世がザクセン選帝侯でもあったことからザクセン選帝侯家がポーランド王意を継ぐことも確定したわけだ。

 でもこれ以後ポーランドは弱体化の一途を辿り、ロシアへの依存を深めていくことで国内の貴族の反感を生み、後で説明するポーランド継承戦争の引き金となる。

 デンマークの方は長年のスウェーデンとの戦争で奪われた領地の回復もならず、得たものと言えば隣国シュレスヴィヒ・ホルシュタイン公国へのスウェーデンの影響が無くなったぐらいだ。

 その後デンマークはナポレオン戦争までヨーロッパでは中立姿勢を保つこととなる。」

 「翌年のニスタット条約でスウェーデンとロシアは講和することとなったが、これもまた厳しい条約だったわ。」

 

 

 「これによって事実上バルト帝国は崩壊、ロシアがバルト海の覇権を握ることとなり一方北欧は没落の一途を辿ることとなる。

 「スウェーデンはその後どうなったんですか?」

 「スウェーデンは1720年にヘッセン公フリードリヒが王位についてフレドリク1世となったけど、この時絶対王政の否定と新憲法の制定が条件となって、王権はかなり制限され、スウェーデンは立憲君主制の国家となった。

 その後国内は『自由の時代』と呼ばれる平和な議会政治が続いたが、議会内部では親ロシア派のメッソナ党と親フランス派のハッタナ派の対立により国力は弱まった。」

 「じゃあここまでを纏めてみると

と言うところでしょうか?」

 「そんなところよ、じゃあここからは神聖ローマ帝国について語る後半戦に入るわ。」

 

後編・カール6世の憂鬱

 

 「前回のラストで神聖ローマ皇帝に即位したカール6世は対外戦争と重商政策、文化的保護に力を入れたわ。

 まずは1715年からのオスマン帝国との戦いね。

 運よくロシアとの戦いに勝って調子に乗ったアフメト3世がヴェネツィア共和国の領土に侵攻してきたため1716年にオーストリアはヴェネツィア側に立って宣戦布告、オーストリア・トルコ戦争が始まったわ。

 プリンツ・オイゲンを総司令官とするオーストリア軍は各地で激戦を重ねたわ。」

1716年8月、ペーターワルダイン要塞の戦い、勝利

 「グゥレイト!!

1716年10月、テメシュヴァール要塞攻防戦、勝利

 「グゥレイト!!

1717年8月、ベオグラードの戦い、勝利

 「グウウウレイトオオオオ!!!!

 「この連戦連勝の結果、1718年にオーストリアとトルコの間でパッサロヴィッツ条約が締結されたわ。

 これによってオーストリアはハンガリー全土を得て、さらにトルコに対して有利な通商条約を締結することに成功したの。」

 「また同じ頃オーストリアはイタリア半島の南に位置するシチリア島の領有を計画していた。

 当時シチリア島はサヴォイア公国の君主サヴォイア家の領土となっていた。

 そしてオーストリアはイギリスとの同盟も計画していた。

 これはスペインの実質の指導者ジュリオ・アルベローニが自身の母国であるイタリアへの野心を持っていたからだった。

 1717年にスペイン軍がオーストリア領サルデーニャに、1718年にサヴォイア領シチリアに出兵すると1718年にイギリス、フランス、オーストリアで三国同盟が成立し、さらにオーストリア領サルデーニャとサヴォイア領シチリアの交換も明記されていた。

 この時神聖ローマ帝国の公式なスペインの放棄も国内の反対を押し切って決定された。

 1720年にイギリス艦隊がスペイン艦隊を撃破しアルベローニが失脚、トルコの方でパッサロヴィッツ条約が結ばれるとスペイン王フェリペ5世はサルデーニャ、シチリア両島からの撤退と同盟への加入を選んだ。

 こうしてオーストリアはシチリアを、サヴォイアはサルデーニャを得て、サヴォイア公国はサルデーニャ王国と改名した。」

 「でもその後ヨーロッパ諸国はいろいろな同盟関係の混乱から、1733年ごろにはオーストリアとフランス、スペインらのブルボン諸国の間での対立が激化していったわ。

 オーストリアはイギリスやプロイセンと友好的な関係を結んでいたの。

 この対立は1733年のポーランド継承問題につながっていくわ。」

 「ポーランド継承問題?」

 「1733年に上にも出てきたポーランド王アウグスト2世が死去すると、北方戦争中に傀儡としてポーランド王になっていたスタニスワフ1世ことスタニスワフ・レシチニスキが王位継承権を主張したわ。

 ポーランドの貴族の多くは親ロシア派のアウグスト2世の息子であるザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世に反感を覚える人が多かったから、スタニスワフ1世を支持したわ。

 さらにスタニスワフ1世はフランス王ルイ15世の娘婿だったことから、フランスによっても支持されたわ。

 一方ポーランドの近隣諸国であるロシアとオーストリアはフリードリヒ・アウグスト2世を支持したわ。

 1733年9月にスタニスワフ1世がポーランド国王に選出された1ヵ月後、ロシアはポーランドに侵攻したわ。

 これから始まったのが『ポーランド継承戦争』よ。

 これをきっかけにフランスはオーストリアに侵攻したわ。」

 「質問〜

 「何だ?」

 「どうしてフランスはオーストリアと戦争したかったんですか?」

 「それはフランスが神聖ローマ帝国の一部であるロートリンゲンを狙っていたからよ」

 「それはまた何で?」

 「ロートリンゲンを支配していたロートリンゲン公フランツ・シュテファンはカール6世の娘であり皇位継承者のマリア・テレジアの有力結婚相手であったからよ。

 もし結婚となったらロートリンゲンはオーストリアに合併されるのは明らかなこと、それを阻止するためフランスはライン川を越えてロートリンゲンを占領したわ。

 更にスペインとサルデーニャもフランス側について、イタリアの失地を占領するために宣戦布告したわ。

 サルデーニャはロンバルディアをスペインはナポリやシチリアを狙っていたわ。

 イタリアの戦いでは1734年6月のパルマの戦いや9月のグアスタラの戦いで敗北して、十分な兵力の無い南イタリア方面の戦いではナポリとシチリアを失ったわ。

 それでもライン川の方面ではロシアからの援軍と老公プリンツ・オイゲンの活躍により戦線を持ち直して、北イタリアでもケーフェンヒュラー伯が局地的勝利を収めたの。

 戦争は1735年のウィーン予備条約で停戦が決定され、1738年に第3回ウィーン講和条約が締結され、戦争が終結したわ。」

 

 

 「これによってカール6世は領土を一部失ったもののフランスに対する後継者問題を解決したわ。」

 「質問その2〜どうしてカール6世は後継者問題にこだわったんですか?」

 「それは『国事詔書』の問題があったからよ」

 「・・・『国事詔書』とは何のことです?

 「『領地の継承に関する法令』とでも訳せばよいかのう・・・

 「天丼や!!」

 「当時ハプスブルグ家は多くのヨーロッパの国の君主国となっていたわ。

 ヨーロッパの宮廷のほとんどは当時婚姻政策で血縁関係にあったため、ファルツ継承戦争やスペイン継承戦争のような大戦争を起こす可能性や、領地の分散を引き起こす可能性があったわ。」

 

 

 「そこでカール6世は1713年にハプスブルグ家全家領の永久不分割とカール6世の男系を相続の1位、女系を2位とする相続順位の法的な確定した『国事詔書』を制定したわ。

 さらに1716年のカール6世の男子の急逝と翌年のマリア・テレジアの誕生によりカール6世は彼女の相続の承認を国内外に必要とする必要があったわ。

 ハプスブルグ家の家領の内、オーストリア、ボヘミア、モラヴィア、シレジアは問題なく承認され、ハンガリー議会も法的独自性を認めることによって認めたわ。

 対外的にはイギリスとインドやアフリカとの交易会社であるオスタンド会社を閉鎖してインド貿易から手を引くことを条件として1731年の第二次ウィーン協定でイギリスに認めさせ、プロイセンもこれに肯定的態度を取ったわ。

 そしてさっきのウィーン予備条約でフランスも国事詔書を承認したわ。

 これらの承認を受けて、国事詔書は1724年に帝国基本法として交付されたわ。」

 「じゃあこれでオーストリアも安泰の時代に入ったんですか?」

 「ところがぎっちょん!

 「古っ!!

 「カール6世は1737年から1739年の第二次トルコ戦争で敗北して、1739年のベオグラード条約でパッサロヴィッツ条約で得た占領地の多くを失ったわ。

 この敗北によってバルカン半島のキリスト教国家ではオーストリアの権威が失墜して、ロシア正教という共通の宗教を持ったロシアとの間に連帯感がだんだんと生まれてくることになるわ。

 さらにこの敗北で自国民の動揺と忠誠心の低下、さらに多くの負担を生むこととなり、この後のマリア・テレジアの時代にツケが回ることとなるの。

 しかも国事詔書もバイエルン選帝侯が認めていなかったため、この後のオーストリア継承戦争を招くこととなるわ。」

 「それじゃあここで今回のまとめだ」

 

 

 「今回の主役であったプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世と神聖ローマ帝国皇帝カール6世は共に1740年に死去したわ。」

 「同じ時代の主役が同じ年に死去するとは、何とも運命めいたものを感じますね。」

 「そして彼らの後を継いだものもまた同じ時代に覇権を争うこととなる。これは次回に見てみよう。」

 

 

 

次回予告

1940年、欧州の新興国プロイセン王国を『大王』フリードリヒ2世が継いだ。

そして同じ年、オーストリアを『女帝』マリア・テレジアが継いだ。

そしてこの2国の間に生まれた炎は英仏を初めとする欧州全土を再び戦いの嵐に巻き込んでいく。

次回、魁!碧塾第四話☆星を継ぐ者☆

くぁあああああつもくして次回を待てい!!(CV麦人)

 「今回は特に補足することとかは無いぞ、また後日まとめてネタ解説をするからな。」

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